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その8 問う どれにする?①

みなさん( ノ゚Д゚)こんばんは~

撮影も無くて、ずっと家に居たら、あっという間に5月も下旬。
いつもなら、お墓参りに実家に帰る頃・・・。
今年は帰れません。帰りません。
あっ (((º▽º ;;) 去年も帰ってなかった。
ばあちゃんゴメン (´・_・人)

私の実家はホントに田舎で。
窓を開ければ波の音が聞こえる、目の前すぐ海!
みたいなところです。
魚釣りなんて、ふらっと行って、釣れたら針に魚ぶら下げたまま帰って
そのまま夕飯(((o(*゚▽゚*)o)))
みたいなことも可能な環境なので、
魚釣り大好きな義父はいつも羨ましがります(笑´∀`)

このタイミングなので、今日はウチのばあちゃんの話をしようと思います。

父方の祖父母と両親、兄と弟の7人で暮らしていました。
父が長男なもんで、本家と言うんですかね。
日本間には曾祖父母の遺影が並んでいるような、そんな和風のおうちに高校卒業まで住んでいました。
母方の祖父母は、私が生まれる前に亡くなっているので、
私にとって「おじいちゃん、おばあちゃん」という存在は、父方のみです。
そんな私が子どもを産んでびっくりしたのは、息子には「おばあちゃん」と呼ぶ人が、5人も居たことです。 曾祖母までいるなんて、 私には経験の無いことだったので「幸せ者やなぁ~」と幼い息子に語りかけたことを覚えています。

そんな経緯から、私は出産と同時に、自分の母と祖母を名前で呼ぶようになりました。子どもたちと話す度に、「どのおばあちゃんのこと?」ってなるので。

私のおばあちゃんは「つなさん」です。
そう呼んでいたので、名前で話しますね。
前置きが随分長くなりましたが、今から、5年ほど前のこの時期。
つなさんは天国へ行ってしまいました。
つなさんは記憶がなくなることもありましたが、私のことは最後まで覚えてくれていました。うちの子ども達のこともしっかり覚えてくれていて、「ええ子やねぇ」と会う度にニコニコしながら褒めてくれたのが、すごく嬉しかったです。

つなさんは長い間、持病とつきあっていました。
様子は随時、母から電話で聞いていましたし、入院した時はお見舞いに帰っていました。なんとなく覚悟というものはしていましたが、祖母が旅立った知らせは、いきなりやって来ました。側にいた専門職の母さえ予想出来ない程、突然に。
あの時ほど、オロオロして、何も出来なくなった事は過去無かったような気がします。実家に帰らなくてはいけないのに、荷物が散乱するばかりで、全く出掛ける支度が出来なくなっていました。

そんな中、折り返し掛ってきた母からの電話で、私はしっかり気持ちを取り戻しました。なんの連絡だったかと言うと。

「つなさんの写真 なんかない?」

いくらフォトグラファーだからって、写真が確実にあると思わんとってよ!
(↑これは心の声です。)
母から、この手の連絡が来たのは実は二回目。
いとこが亡くなった時も、「何かの時に撮ってなかったっけ?」という曖昧ななんとなくの電話が掛ってきました。ネガもデータもちゃんと保存はしてるけど、
「そもそも撮ってなかったらないからね!」
ちょっと大きめの声で言いたかったけどww この時は我慢しました。
そうです!写真は撮ってなければ、どんなに探してもありません。
当たり前のことを2回も言いました(笑´∀`)すみません。

そういう面でも、つなさんすごいなぁ~って思うんです。
私が、写真スタジオで働き始めて、カメラを持つようになった頃、
実家に帰省する度に写真を撮って欲しいと何度も言われました。
「写真」イコール「遺影」のことだと察しましたが、私自身が、まだその必要は無いと思っていたし、実際、その腕もありませんでした。当時はまだ、フィルムの時代です。
つなさんも若かったし、いつか何かの時に。そう言って、先延ばしにしてしまったのは確かです。
そして、いつか何かの時は来ないまま、その日を迎えてしまいました。
つなさんのお願いを聞いてあげなかったことを今も後悔しています。
だから今、フォトグラファーを仕事にしているのかもしれません。
なんて・・・思ったり。

話は5年前に戻ります。
母の超曖昧な なんとなくの連絡のお陰で正気に戻った私は、ここからパソコンとアルバムの両面で写真の「つなさん」を探し始めます。
泣いている場合ではありません。こうした時間を過ごすことで故人を偲ぶことが出来るのだと、この時間が大切なのだと、この日の数時間後に親戚のおじさんに諭されました。確かに。それは実感しましたが、写真は撮ってなければ探しても見つかりません。(3回目ですww)

結局、私が撮っていた写真に写りこんでいる程度のカットを数枚。
それと、息子の初節句の時に社長が撮った息子との2ショット。
多分、社長が撮ったこの写真になるだろうなぁと思いながら持ち帰りました。
そう思ったことにも理由があるのですが、それはまた後で。

母も、つなさんの部屋から何枚か写真を探して来ていました。
おばさんたち(つなさんの娘)と一緒に写っているものから、随分前のものまで様々。
3枚くらいまで絞った所で、私が決定打を打ったので、予想通り、遺影はあの初節句の時の写真になりました。
大洲に残っていた社長にすぐ電話し、遺影を作って貰い葬儀には間に合ったのですが。

実は。
このあと、四十九日の法要までの間に遺影を作り変えることになります。
私が大切なことを忘れていたせいです。
忘れていた・・・と言うより、気付いてもいなかったからです。

長くなってしまったので、続きはまた次回。

こちらから 続きが読めます❀.(*´▽`*)❀.

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