あの日のこと
7月6日の朝。
警報が出て小学校は臨時休校になりましたが、高校生の息子は授業があったのでいつも通り慌ただしい朝でした。
この状態では、翌日のイベントは難しいだろうと、コラボして頂くアンティークなずなさんやGattoneroさんと連絡を取り合い、中止を決定しました。
息子から『避難勧告が出たから帰ります。迎えをお願いします。』と連絡があったのは11時を過ぎたころ。迎えに行く道中で、肱川の様子を目にしました。
これ以上水が増えてしまったらどうなるのだろう・・・。
私たちは経験の無い事態に不安を覚えつつ息子を連れて帰りました。
翌日の7日の朝。
我が家の全ての携帯が鳴り響き、避難の連絡が来ていました。
友人知人が情報を共有し、動ける範囲の確認や、状況の把握を急ぎました。
時間を追うごとに高速道路は通行止めになっていること
目の前の国道は車が通っているものの2キロほど先からは水没していて通行止めで、全てUターンさせられているという情報が入ってきました。いつも使っているルートももう通れないだろうと予測は着きました。
送られてくる変わり果てた町の姿に苦しくなり、次第に見るのも辛くなっていたのも正直な気持ちです。
7月8日。
状況は目に見えて分かるようになります。
大切な仲間の家は浸水の被害に遭っていました。近くに住む友人の家も無残な姿でした。
とりあえず今できる事から。
自宅が無事だった私たちは仲間の元へ走り、友人の自宅に駆けつけました。
しっかりと残る天井から20㎝ほどの所に見える線。
ここまで水があったのか、本当に信じられない高さです。
友人は避難していたので、怪我もなく無事でしたが、もう言葉もない。
ただ前向きに、ここに留まらないよう声を掛け、自分が動くしかありませんでした。
声を掛けて頂けるところには伺い、お手伝い出来ることをさせて貰い、
三連休前からはボランティアに参加し、遠方から来て頂くボランティアさんのお手伝いなどをさせて頂いていました。
その中にいさせて頂く間は、沢山の方々に支えて頂いていることを痛感し、感謝の気持ちでいっぱいでした。同時に自分たちが出来る事の限界に申し訳なさもあったりして・・・。
その頃、我が家も水が出ていませんでした。
家は無事だったけれど、水がでないだけでこんなに辛いとは思いませんでした。
飲み水の確保はすぐに出来ましたが、生活の全てに水は必要で、あれもこれもいつもの通りにはならないことが、心のゆとりまでもなくなってしまうのだとまた落ち込みました。
給水所には自衛隊の方が常駐して下さっていました。
緊急給水所の最後3日程は小学生の子供達が自衛隊さんのお手伝いに走っていました。
20リットルのポリタンクを友達同士で協力して運ぶ姿は、子供達なりに「大洲のために出来る事」を考えた答えなのだと思い、成長を感じました。
被害もなく、家族も元気なのだから・・・。
そう思うと、家でじっとしておくことは出来なかった2週間。
『町に笑顔が戻るように。』
いつもそのことだけは願っていました。
ここからは写真の力を信じたいと思います。
写真家の私たちだから出来る事。
7月20日から9月30日までの間
当店全ての撮影並びにイベントの売上の一部を大洲市へ義援金として寄付させて頂くこととしました。
一人でも多くの方に笑顔を。
カメラを向けたら、つい笑顔になるでしょ。
ピース作って、肩寄せ合って。
そんな心安らぐ一時が永遠になりますように。